娘と娘の友達を連れて出掛けた先に、息子に似た感じの青年がいた。
それが1人や2人ではない。
娘もそう感じたようだ。
「兄ちゃんに似てたよね。」
「兄ちゃんかと思ったね。」
居るわけないんだけど、本当に似てた。
なんしよん?って話しかけそうなくらいに。
寂しい、辛い…よりも嬉しかった。
息子ではないんだけど、まるで息子と一緒に出掛けた気分になれた。
さぁ、連休明けたし、今週は仕事が忙しく、新人の私には上からチェックが入る、学びの1週間だ。
マイナスイオンも浴びたことだし、頑張らなくっちゃ。
2016.1.14(木曜)愛する息子は『親の意向だから』と言って自死を選びました。
生きるとはなんなんでしょうか?
娘と娘の友達を連れて出掛けた先に、息子に似た感じの青年がいた。
それが1人や2人ではない。
娘もそう感じたようだ。
「兄ちゃんに似てたよね。」
「兄ちゃんかと思ったね。」
居るわけないんだけど、本当に似てた。
なんしよん?って話しかけそうなくらいに。
寂しい、辛い…よりも嬉しかった。
息子ではないんだけど、まるで息子と一緒に出掛けた気分になれた。
さぁ、連休明けたし、今週は仕事が忙しく、新人の私には上からチェックが入る、学びの1週間だ。
マイナスイオンも浴びたことだし、頑張らなくっちゃ。
娘と話している時に、ふと2人ともが、息子に話しかけている。
昨日は給料日でステーキを買った。
供える時に「兄ちゃん、好きな塩レモンを振りかけとくね。」と言うと、すかさず娘が「兄ちゃん、美味いか?」とか、今日は娘のリクエストで試合帰りにマクドナルドに行ったが、「兄ちゃんはダブルチーズバーガーやな」と言うと「ポテトは私が食べてあげよう」とか。
大好きだったアメトークを見ながら、「生きていたら新しいのが見れたのに」と言うと「あの世には無いからつまらんやろ」など。
そうやって言葉に出して、互いに息子を、兄ちゃんを感じている。
無理やりではなく、自然に、まだ生きてるように話しかける。言葉は「もしも生きていたら」みたいな言葉であっても、とにかく話しかける私たち。
忘れられる訳がないなら、忘れたくないなら、話しかけるしかないんだ。
見えない息子に。
知らない分からない人からしたら、悲しすぎて幻覚?妄想?などと思われても構わない。亡くなってる息子のことを、今でも、さも生きてるように話す私を「大丈夫?」と心配する人がいるけれど、私の中では生きてるから。
さぁ、今日も話しかけるぞ。
今日のネタは何にしようか兄ちゃん。
またですか、母さん。なんて言わないでよ。
母さんと話してる時、娘がヤキモチ妬くくらいの掛け合いしてたやろ。
楽しかったやろ、週末が。今日は楽しかった週末やで。
夕方、会社のベランダに出てみると、裏山の中に灯りが見えます。
山道を登る人の為についてる灯り。
息子の行った道にも有るのかな?と思ったりします。
暗くないかな?
迷ってないかな?
悲しくて立ち止まってないかな?
帰りたいんだ‼︎母さん。なんて泣いてないよね?って思ってしまう。
少しずつ沈んでしまう気持ちに、「お前が選んだ道だ。前に進むんだよ。泣かずに行くんだよ。」と、見えない息子を思って言っては、自分も進むんだ‼︎と奮い立たせては、目の前の仕事を片付けに行く。
毎日、毎日。夕方仕事に疲れたら行う儀式みたいになりつつ…。
今日は、ノー残業デーなんで灯りがつく前に帰るかもしれない。
夕暮れが遅くなってきたから。
春が近づいてる、あの日から時は流れてる。