割り切れる日は。
今日は娘の学校説明会に参加し、今は中学の部活送別会に参加してます。
少しずつ、少しずつだけど春に近づき、新しい年度がどうなるか見え始めた。
バスケ部の部長と久しぶりに話した。
部長の長女は知的障害のある20歳。
就労B型に行きながら頑張っている。
障害のある子と、ない子。
うちの息子は障害では無かったけど、ある意味障害だったんだろうか?
『引きこもりは、ある意味、障害になるかな。でも本人は気付いて無かったと思うよ。』
そう部長は言った。
そうかも知れない。
『だけどね。誰も好きでなるんじゃないしね。本人も家族も気付かない内になってるんやけん。骨折や怪我のように目に見えるもんじゃないしね。だから自分を、にいちゃんを責めても仕方ないんよ。自分が割り切れるまで、にいちゃんに死を人に話す必要はないよ。』
自分が割り切れるまで。
いつだろう?にいちゃんの死を割り切れる日は来るのかなぁ。
にいちゃんに似た清涼剤君を見ては溜息。
にいちゃんが通ったであろう、通学路を見ては溜息。空を見ても溜息。
でも、去年よりは泣かないかな。
これが割り切れるってことなんかな?
やはり、日にち薬なんかなぁ。
どうだろうね、にいちゃん。
母さんは抱きしめることが、話すことが出来るならばしたいよ。
どうなんだろうね、にいちゃん。
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